古典を手本に、自らの創作を追求した情熱の絵師
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江戸時代後期に活躍した絵師・田中訥言は、尾張に生まれました。この美しい絵を描いた訥言とはどのような人物だったのか、徳川美術館 学芸部の吉川美穂さんにお聞きしました。「訥言は円山応挙の師だった狩野派・石田幽汀(いしだゆうてい)や宮廷の御用絵師・土佐光貞(とさみつさだ)に学び、若い頃から頭角を現しました。次第にその名が世にしられるようになると、尾張の豪商たちからの依頼を受けて、次々と大作を生み出した絵師です。」
訥言は古典絵巻、「伴大納言絵詞」「佐竹本三十六歌仙絵巻」など、やまと絵の古典を模範とし、研究することで、創作の幅を広げたことで知られています。「その模写、再現へのこだわりは、絵の具の剥がれや虫食いの部分まで忠実に絵に写すのが訥言のスタイルで、彼は常に多様な画法に挑みながら、やまと絵の新境地をひらき、人々を魅了しました。」
まわりを圧倒する探究心と創作意欲を持ち続けた一方で、「暮らし面には無頓着で、型破りなところもあったのでは?」と吉川さん。「尾張の豪商に画料の前借りを頼む手紙や、絵文字まじりのユーモラスな手紙がのこされています。その文面からは、訥言らしい、なんとも言えぬ人間味が伝わってきます。」
豪商がパトロンに、
そして当時の園芸ブームが名作を生んだ?
訥言の傑作「百花百草図屏風」は、芸術を愛する尾張の豪商・岡谷惣助の依頼によって描かれました。江戸時代の豪商は俳諧や能・狂言、茶の湯をたしなみ、芸術に惜しみなく財をつぎ込みました。絵を注文するだけでなく、絵師を家に泊まらせて経済的に支援し、時に絵を習うこともあったのだとか。特に茶道が盛んだった尾張では、訥言の絵は人気を博し、茶室の掛軸を訥言に発注することが名家のステイタスとされました。
豪商と絵師の交流をしのばせる、「百花百草図屏風」の制作エピソードをご紹介いただきました。「訥言は岡谷家から絵を描く前に画材費として30両を受け取りましたが、京都に戻る途中の宿場町で、2度にわたって使い果たします。3度目に30両と旅費6両を渡され、訥言はようやく絵筆をとりました。」
吉川さんによると、もう一つ「百花百草図屏風」の背景にあったのが、園芸の大流行です。江戸時代は、武家のお殿様から町の人々までが園芸に熱中し、朝顔や菊などの新品種が次々と生み出され、とくに広大な薬草園を所有していた尾張徳川家では、東洋の博物学である「本草学」が独自の発展を遂げました。「『百花百草図屏風』の草花の精密な描写には、本草学の影響もあるのでしょうね。また、訥言が古典の模写で培ってきた観察眼や画力も、生かされたのだと思います。」
そよ風にきらめく、四季の草花
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それでは、「百花百草図屏風」を、ご一緒に観てみましょう!屏風は右隻と左隻のペアで構成され、右から左へ四季の移ろいが100種近くの草花によって表現されています。右隻は、春を告げるわらびにつくし、夏のケシやカキツバタなどが、巧みに配されています。ススキやフジバカマ、寒牡丹など秋から冬の草花は、左隻に。高低差のある草花が心地よいリズムを生み出し、そよそよと風にさざめくようです。
よーく絵を観てみると、絵には凸凹の横じわがあります。「この屏風の地の金の煌めきは、訥言の技のすごいところで、しわを寄せた檀紙という儀礼用の紙に金箔を押し、その上に絵を描いています。しわの凸凹によって着色の濃淡ができ、絵の具が薄い部分は金箔の色が透けて溶け込むように見えます。それがキラキラと光を浴びて、輝いているように見えるよう仕込んでいます。」四季の草花が金の光をうけてきらめき、まるで天上の花園のような美しさ!繊細な筆致のなかに、訥言のほとばしる創作への情熱を感じます。
江戸時代後期〜やまと絵ルネサンス〜
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訥言が師事した土佐派では、師匠の絵を弟子が模写して学ぶスタイルでした。訥言はそれに飽き足らず、源流をさかのぼって古い絵巻をやまと絵の原典の模写を続け、その腕を磨いていきました。そしてその画風は後に、後進の画家に大きな影響を与え、「復古やまと絵の祖」と呼ばれるようになります。
もうひとつご紹介したい、復古やまと絵の集大成と言える訥言の名品「古今著聞集図屏風(ここんちょもんじゅうずびょうぶ)」を観てみましょう。「尾張の豪商・大脇家の依頼で描かれたこの絵も、大評判を博しました。当時の尾張の豪商たちには馴染みが薄かった鎌倉時代の説話集『古今著聞集』までも、訥言は絵の題材に取り入れ、屏風絵の解説文を完成後に渡したと言われています。」
幅広いテーマ、多彩な画技に挑戦
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尾張の豪商と訥言の交流から生まれた、他の絵もご紹介しましょう。「白鷺に鶺鴒図屏風(しらさぎにせきれいずびょうぶ)」は、芦がしげる水辺に遊ぶ3羽の白鷺と、急降下してくる鶺鴒の動きのコントラストが印象的です。「白鷺は、輪郭線の外を青の顔料で薄くぼかして、その白さを際立たせています。また、背景の余白が余韻となって、水辺の涼やかさが見事に表現されていますね。」と吉川さん。
能や狂言を好んだ訥言は、狂言をテーマにした「靭猿図(うつぼざるず)」のような作品も描きました。「靭猿」は有名な狂言の演目の一つで、大名が靭という武具の皮にするために、猿引が連れている猿をよこせと迫るシーンが描かれています。さも尊大な様子に描かれた大名のそばで、小さくなってひざまずく猿引、お面をつけてうなだれる猿の、それぞれの心情が伝わってくるようです。
江戸時代に芸術文化を愛し、多くの作品を生み出した絵師と豪商たち。その豊かな感性と交流は、200年以上の歳月を経て今もなお、私たちに美を、そして美を愉しむ喜びを伝えてくれます。
2022年7月現在の情報です。
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御三家筆頭の尾張徳川家に受け継がれた大名文化を後世に伝えるため、19代義親により1935年に設立された美術館。「源氏物語絵巻」をはじめとする国宝9件、重要文化財59件など1万件あまりの美術品や歴史資料を収蔵。大名家伝来家宝のコレクションとして日本最大規模を誇ります。
■徳川美術館
〒461-0023 名古屋市東区徳川町1017 TEL.052-935-6262https://www.tokugawa-art-museum.jp休館日/月曜日(祝日・振替休日の場合は直後の平日)