8月上旬に立秋を迎えると、杉本家のお庭では虫の声が聞こえてきます。「まだ暑さが厳しい頃ですが、空気に秋の気配がかすかに漂い始めます。そこから秋の草が背を伸ばし、秋の花が咲くと、ああ…秋が来たんやなと感じます。」と節子さん。
寒暖差が大きい京の町家では、快適に暮らす知恵として季節の変わり目に建具を入れ替えます。杉本家でも9月下旬の彼岸の時期に建具替えをするのが習わしでしたが、温暖化にともなって現在は10月中旬頃に行います。「江戸時代から杉本家当主が書き残してきた『歳中覚(さいちゅうおぼえ)』には、子孫に伝えるべき暮らしの覚え書きが記されています。ひもといていくと、習わしの一部を墨で消し、新たに習わしを付け加えた跡があちらこちらに。習慣は暮らしのよりどころではありますが、今の心地よさを大切に、柔軟にアップデートしていくもんやと教えてくれるようです。」
家じゅうの建具を入れ替えるのは、私たちが想像する以上に大仕事です。杉本家では、忙しくて食事の用意に手がまわらない時は、近所のなじみのお店に出前をお願いすることもあるのだそう。「うちは元商家やから、休日に家族そろって外食する習慣がなくて。そやから、てんやものはほんまに特別な時だけ。」と微笑む節子さん。
作業の合間の食事は、さっと食べられるものが一番。杉本家とは約30年来のおつきあいという近所のうどん屋さん・招楽へ頼むのがお決まりです。そこにも同じ地域で生きる人との共生、ぬくもりを感じます。
「いつも注文するのは、きつねうどんや生姜たっぷりのたぬきうどん。よほど疲れた時はちょっと贅沢させてもろて、えび天入りのなべ焼きうどんを。慣れ親しんだおいしさに気持ちがほっこりして、『もうひと仕事、頑張ろ』となるんです。」
杉本家のイベントを陰で支える名脇役!? あったかいおうどんの芳醇なおだしには、働く人を力づける魔法が含まれているのかもしれません。
涼を求める夏の建具をしつらえた屋内は、陽ざしをさえぎり、ほの暗くひっそりとした雰囲気です。「秋の建具替えで障子ふすまに替えると、白い障子が陽の光を通し、家のなかがほんのりと明るくなるんです。」と節子さん。夏と冬でがらりと表情を替えるしつらえが、四季のうつろいと暮らしのメリハリを教えてくれます。節子さんには、秋になると懐かしく想う景色があると言います。「かつて祖母が居室として使っていた、八畳の間の障子から西日が射す風景は、子ども時代の想い出と深く結びついています。おばあちゃん子だった私は、小学校から帰ると、『ただいま、おばあちゃん!』と真っ先に祖母の部屋に向かったものでした。おしゃべりを楽しんでいると障子ごしに光と影の移ろい、庭の紅葉の色さえも感じることができたんです。」
かけがえのない日々への郷愁とともにある情景は、なんと温かく美しいのでしょう。この部屋で、お料理が得意だったおばあ様と一緒にテレビの料理番組を見ていた時間は、後に料理研究家となった節子さんの心の原点となっています。
萩、山茶花、フジバカマ、シュウカイドウ、ススキ、おみなえし。秋の可憐な草花が、杉本家の庭で風にさざめきます。お庭は、植物や昆虫がお好きだった亡きお父様の想い出とともに、今も大切に手入れされています。
「うちとこのフジバカマは希少な日本古来の品種で、その風情を父はとりわけ愛していました。フジバカマの蜜を目当てにやってくる蝶といえば、ツマグロヒョウモン。毎年、秋に必ず現れる美しい蝶々が、父や家族の目を愉しませてくれました。」
蝶といえば春のイメージがありますが、節子さんにとっては秋の風物詩。そこに、仕事の合間によく庭の世話をしていたお父様の面影が重なります。
やさしい想いとともに、杉本家の秋の景色を語ってくださった節子さん。その暮らしにともるぬくもりは、きっと私たち一人ひとりの心の奥底にも大切にしまわれているはずです。この秋も、大切にしている景色に会いたくなりました。
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杉本家10代目当主・料理研究家
杉本 節子さん京都市生まれ。公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会常務理事 兼 事務局長、料理研究家、エッセイスト。生家は重要文化財「杉本家住宅」・名勝「杉本氏庭園」。京町家・杉本家と京都の年中行事、歳時記に関する歴史・食文化と伝統食を継承。食育活動からメニュー開発まで幅広い分野で活躍中。主な著書に『京町家のしきたり』光文社知恵の森文庫、『京町家・杉本家の献立帖』小学館など。
2022年7月現在の情報です。
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■重要文化財 杉本家住宅
〒600-8442
京都市下京区綾小路通新町西入ル矢田町116
TEL 075-344-5724https://www.sugimotoke.or.jp/※2023年10月末まで修復工事のため、特別公開および解説見学は未定です。状況をみながら公開を検討します。
詳しくはホームページをご確認ください。