尾張徳川家
十一代斉温(なりはる)夫人福君(さちぎみ)のお嫁入り
華麗なる婚礼調度
現存するなかで日本最大規模を誇る婚礼調度と、その持ち主であった福君の生涯をクローズアップ。
徳川美術館の吉川美穂さんにお話を伺いしました。
京から江戸へ、総勢千人で向かった婚礼行列
尾張徳川家11代斉温公のもとに、17歳で嫁いだ福君。「福君は公家の五摂家の筆頭である近衛家の養女で、書道や和歌、四書五経に親しむ教養豊かな姫君でした。」と吉川さん。公家と武家を代表する名家同士の婚礼は贅を極め、かかった総費用は5万両といわれています。
壮麗な婚礼行列は、絵にも描かれたほど。尾張藩士たちが福君を京まで出迎え、総勢千人で、江戸の藩邸に住む斉温公のもとに23日をかけて向かいました。とはいえ、当時は天保の飢饉に見舞われたばかりで、尾張徳川家も財政難に苦しんでいました。「自費で行列のおともを命じられた藩士は準備費用がまかなえず、お供が叶わなかった者もいたそうです。」と、吉川さんがエピソードを教えてくださいました。
婚礼行列の先頭を飾るお道具で、一番大事に扱われた貝桶のお話を伺いました。貝桶は貝合わせの遊びに使う合貝(あわせがい)を納める桶で、貝が他の貝殻とは合わないことから夫婦円満の象徴として大切にされました。婚家に到着すると、最初に貝桶を受け渡しする「貝桶渡し」を行います。新婦が婚家の敷居をまたぐのは、その後。「貝桶渡し」は両家の重臣が担当するほど、重要な儀式だったのです。
大大名家の風格を映す、優美な意匠
福君の婚礼調度は「菊折枝蒔絵(きくおりえだまきえ)調度」と呼ばれ、金粉をふんだんに用いた総梨子地(そうなしじ)に菊の折枝が配されています。菊は長寿のシンボルとされた吉祥文様で、総梨子地は、当時将軍家と御三家のみに許された希少な技法でした。大名家の婚礼支度には、婚家が用意する道具「御待請(おまちうけ)道具」と実家がそろえる「御先(おさき)道具」がありました。「菊折枝蒔絵調度」に、尾張徳川家の葵紋と近衛家の抱牡丹紋が付けられているのは、「御待請道具」であったためと考えられています。さらに、この婚礼道具をミニチュアサイズに精緻に再現した「菊折枝蒔絵雛道具」も誂えられ、華麗さを極めたお支度でした。
このほか、近衛家が用意したと思われる「抱牡丹紋散蒔絵雛道具」、大名家の婚礼調度として必需品であった碁盤・双六盤・将棋盤がセットになった「三面」など、総数210件あまりの婚礼道具が徳川美術館に伝わっています。吉川さんによると、「調度品の中には明らかに製作年度が異なるものもあり、一度にすべてを新調したわけではなさそうです。」とのこと。同じ近衛家から先の代のご当主に嫁いだ姫君の婚礼調度を再利用していたことが記録に残されていて、時を超え、とても丁寧に使い、受け継がれていることをうかがい知ることができます。
幸せを願い、願われた2人は…
斉温公と福君の婚礼の後日談です。夫婦仲は良好だったようですが、斉温は生来病弱で結婚からわずか3年後、21歳の若さで亡くなります。福君は落飾して俊恭院と名を改め、夫の菩提を弔う日々を送りましたが、持病を療養するために江戸から尾張に移って新生活を始めました。しかし、その翌年に病が悪化し、福君も後を追うように21歳で亡くなりました。
皆から幸を願われ、また当人達も願った幸せは、病には勝てなかった2人ですが、福君の華麗な婚礼調度が、時を超えてその想いを伝えてくれているようです。
徳川美術館の紹介
御三家筆頭の尾張徳川家に受け継がれた大名文化を後世に伝えるため、19代義親により1935年に設立された美術館。「源氏物語絵巻」をはじめとする国宝9件、重要文化財59件など1万件あまりの大名道具を収蔵。
大名家伝来家宝のコレクションとして日本最大規模を誇ります。
〒461-0023 名古屋市東区徳川町1017 TEL.052-935-6262 https://www.tokugawa-art-museum.jp
休館日/月曜日(祝日・振替休日の場合は直後の平日)